三河・西浦温泉「葵」は、館内に徳川家の姫たちの物語が広がり、天然温泉の露天風呂や大浴場、三河湾の絶景でおもてなし | 記念日の宿

姫たちの夢

ここには姫たちの心が

今によみがえった葵には、
徳川の姫たちのやさしく慈しみある心が、
そこここで感じていただけます。

姫たちの物語りひろがる空間・・・

広い館内には、徳川家康の生母、於大の方をはじめ、
お江与、淀殿、千姫など、
徳川創成期に華麗に生きた姫たちの
人柄や逸話を感じていただけます。

姫たちの日々を感じる・・・

姫たちの優美と気品を
感じていただけるしつらいが、
館内のいたるところに施されています。

姫をもてなす心で・・・

葵のお食事に、お部屋に湯殿に、
姫を慈しむかのような心のおもてなしが
散りばめられています。

「姫たちの柱」

●「姫たちの柱」

館内に入ると最初に目に入るのが、
微笑む姫たちの巨大な柱。
ここから徳川の姫たちの物語りが
はじまります。

●「姫の雅に癒される」

豪華な名古屋友禅の打掛がそこはかとない姫の装いの美学を伝えます。
語り尽くせぬ美の世界に彷彿としていただけるおもてなしです。

「姫の雅に癒される」

「姫たちに会う 姫たちを巡る」

●「姫たちに会う 姫たちを巡る」

館内のいたるところで、あなたを徳川の創成期に生きた姫たちが迎えます。
それぞれの姫の故事来歴をご覧になるにつれて、雅で気品にあふれる姫の世界へと誘われることでしょう。

「葵」にまつわる姫君

16人の姫をご紹介します。

葵の館内に華麗によみがえった徳川ゆかりの姫たち。
そんな美しき16人の姫たち、ひとりひとりのプロフィールをご紹介します。

  • 於大の方
  • お江与の方
  • 築山殿
  • 阿茶局
  • お市
  • 淀殿
  • お初
  • 亀姫
  • 西郷局
  • お亀の方
  • 珠姫
  • 和子
  • 千姫
  • 鷹司孝子
  • 春日局
  • 桂昌院

「葵」にまつわる姫君

於大の方

於大の方

於大は尾張国知多郡の豪族 水野忠政とその夫人 於富の間に、父 忠政の居城 緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。
当時、三河で勢力を振るっていた松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた。
1543年、於大は広忠の長男竹千代(のちの徳川家康)を生む。
しかし忠政の死後、水野家を継いだ於大の兄 水野信元が1544年に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ったため、於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の三河国刈谷城(刈谷市)に返された。
その後、於大は1547年には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主 久松俊勝に再嫁する。俊勝との間にも三男三女をもうけるが、この間も家康とは音信を絶えず取り続けた。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し、織田家と同盟した家康は、久松俊勝と於大の三人の息子に松平性を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。
於大は夫 久松俊勝の死後、剃髪して伝通院と号す。
於大の出生地、東浦町では彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。

お江与の方

お江与の方

浅井長政の三女として近江国小谷に生まれるが、その年、小谷城が攻め落とされ、母 市、姉 茶々、初とともに城を逃れ、信長に保護される。
本能寺の変で信長が家臣 明智光秀に殺害され清洲会議により、母 市とともに柴田勝家のもとへ。
賤ヶ岳の戦いで勝家、市の自害後は豊臣秀吉の元へ保護される。
佐治一成、小吉秀勝と結婚するも離縁、死去となり、家康の三男 秀忠に嫁す。
千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子を産む等、歴史的にも重要な人物でありながら、容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる資料は少ない。

築山殿

築山殿

徳川家康の正室。
本名は瀬名(せな)、別名は鶴姫、駿河御前とも呼ばれる。今川家一門、瀬名家の関口義広の娘で母は今川義元の妹、つまり義元の姪にあたる。
今川家の人質だった松平元信(のちの元康、徳川家康)と今川義元の命により結婚。松平信康、亀姫を産む。
桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、元康は岡崎に帰還する事となった。
築山殿は、今川義元の妹の夫で、上ノ郷城城主 鵜殿長照の2人の遺児と於大の方の次男源三郎との人質交換により、駿府城から子供達と家康の根拠地である岡崎に移った。
しかし、姑の於大の方の命令により、岡崎城に入る事は許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持寺で幽閉同然の生活を強いられたという。
そんな生活の中、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。
徳姫は、後に「信長の十二ヶ条」に記されることとなる、築山殿の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師 減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。
これにより信長の咎めを受け、家康は築山殿と信康の処刑を命じたとされる。
築山殿は岡崎城から浜松城に向かう途中、佐鳴湖畔富塚村の小藪で家康の家臣により殺害、信康は二俣城にて切腹した。
身に覚え無い「謀反人」の汚名を着せられて一人寂しく浜松の野に散華した築山殿の姿を想うと、いかに戦国乱世とはいえ涙をきんじえないものがある。

阿茶局

阿茶局

徳川家康の側室。
出生に関しては諸説があり不明。
神尾孫兵衛なる者の妻となり、一子をもうけたというが結局、未亡人となる。
本能寺の変の後、徳川家の甲斐侵略の際に家康に見出され、側室となる。
美貌に才智を兼ね備えていたため家康から寵愛を受け、戦場にも同伴。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の調略に一役買ったともいわれる。
大坂の陣でも家康に、冬の陣では本多正純とともに和議の交渉役を務め、豊臣秀頼から血判誓書を受け取っている。
家康死去に際し、妻は剃髪を命じられるが、家康の遺命で阿茶局のみ許されたほど家康から愛された一人でした。

お市

お市

織田信長の妹。
兄 信長の命により、近江国の浅井長政と政略結婚をする。
信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたため浅井家と織田家の友好関係は断絶した。
姉川の戦いの後、小谷城が陥落し、夫 長政も自害。
市は三人の娘(茶々・初・江与)とともに織田家に引き取られ、清洲城にて平穏に過ごす。のちに織田氏家臣の柴田勝家と再婚。
勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後、勝家とともに越前北ノ庄城内で自害した。
戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったと伝えられている。

淀殿

淀殿

諱は茶々(お茶とも)および菊子。
茶々は生涯で一貫して名乗った名。
賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、茶々ら三姉妹は逃がされて秀吉の保護を受けた。
1588年頃、茶々の母、市に憧れていた秀吉は、母の面影を一番良く受け継いでいた茶々を側室に迎える。
1589年捨(鶴松)を産む。
この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。
鶴松は幼くして死亡するが、拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は、後見人として豊臣家の家政の実権を握った。
関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築しはじめた家康と対立。
大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼とともに自害したとされる。

お初

お初

浅井長政の次女。
室町時代に守護大名、四職の一つとして繁栄した近江源氏の流れをくむ京極家当主京極高次の正室。
姉の茶々は、豊臣秀吉の側室。
妹のお江与は徳川秀忠の正室。
三姉妹の中で一番格下の家に嫁いだと思われがちだが、新興の豊臣家や徳川家に比べ、京極家は室町時代に数ヶ国の守護を兼ねた名大名であり、一番格上の家に嫁いだといえる。
夫 高次の死後、剃髪・出家し常高院と号す。
大坂の陣では、豊臣方の使者として仲介に奔走し、豊臣・徳川両家の和議に尽力した。

亀姫

亀姫

徳川家康の長女で、奥平信昌の正室。
母は、築山殿。
長篠の戦いの戦勝にともなう政略結婚により、三河の新城城主 奥平信昌の妻となると、4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女をもうけた。
彼女を「宇都宮城釣天井事件の黒幕」とする説がある。
一人娘の嫁ぎ先である大久保家の不可解な改易(大久保忠隣失脚事件)と、孫の忠昌の転封を、重臣・本田正純の奸計と見なした亀姫は、弟の二代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純が湯殿に釣天井を仕掛け暗殺する計画があるという事実無根の噂を流し、結果、正純は配流され、その後、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。

西郷局

西郷局

通称、お愛の方。
徳川家康最愛の側室だったといわれる西郷局は、九州の名門菊池氏の一門である西郷氏の末裔と伝えられている。
成長し最初の夫に嫁したものの先立たれて寡婦となっていた。
そこを同じく正室に先立たれた従兄 西郷義勝の継室に望まれたが、武田氏の先遣 秋山信友の南進を阻むための竹広合戦で、義勝が落命。
またしても未亡人となる。
やがて母の弟 西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれる。
西郷局は、美人で温和誠実な人柄であり、家康の信頼も厚く、周囲の家臣や待女達にも好かれていた。
また、極度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活の保護をしていた。

お亀の方

お亀の方

石清水八幡宮の祀官家 田中氏の分家ある京都 正法寺 志水宗清の娘。
初めは竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を産む。
夫と死別後、奥勤めに入る。
亀女が22歳の時、徳川家康に見初められ側室に入り、1595年に仙千代を、1600年に尾張徳川家の祖である五郎太(のちの徳川義直)を産む。
亀女は家康の死後、相応院と名乗り、義直のいる名古屋城で暮らした。

珠姫

珠姫

徳川秀忠と正室 お江与の方の次女で徳川家康の内孫にあたる。
前田利常の正室であった珠姫だが、利常と結納をかわし、結婚したのがわずか3歳。
夫 利常とは政略結婚であったが非常に仲の良い夫婦であったと伝わっている。
珠姫は、14歳で長女 亀鶴姫を出産すると三男五女に恵まれるも、五女 夏の出産4ヵ月後に病没。
これには乳母が深く関わっている。
外様筆頭の前田氏に幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母は、夏姫の出産後母体の調子がよろしくないという理由をつけ珠姫を隔離。
事情を知らない珠姫は、利常の御成が無くなったのを寵愛が薄れたからと誤解し、衰弱死してしまった。
臨終の床に強引に駆けつけた利常は珠姫の遺言からすべての事情を悟り、その怒りから珠姫の乳母を蛇攻めにして処刑してしまったという。

和子

和子

徳川秀忠と正室 お江与の方の間に五女として江戸城大奥で誕生する。
後水尾天皇が即位すると大御所 家康は和子の入内を申し入れ、1614年4月に入内宣旨が出される。
女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官 四辻与津子が皇子 賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。
秀忠自身が上洛して参内し、与津子の近臣らを配流し、与津子らを宮中より追放することで合意(お与津御寮人事件)。
晴れて、後水尾天皇の女御として入内する。
この時の盛大な様子が「東福門院入内図屏風」に描かれている。
夫である後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。
手先も器用で、現存する日本最古の押絵は和子の物とも言われる。

千姫

千姫

徳川秀忠と正室 お江与の長女として山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。
1603年7歳で豊臣秀頼と結婚し大坂城に入る。
秀頼とは従兄姉にあたるが、大変仲睦まじかったという。
1615年、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
その後、秀頼と側室の間の娘 奈阿姫が処刑されそうになると千姫は彼女を自らの養女にして助ける。
1616年桑名藩主 本多忠政の嫡男 忠刻と結婚。
この時、津和野藩主 坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害、坂崎氏は簡易処分となった(千姫事件)。
本多忠刻とも夫婦仲は良く、勝姫、幸千代を出産するも、幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝には恵まれなかった。
1626年には忠刻、姑 熊姫、実母 お江与が次々と没する不幸が続き、本多家を勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。

鷹司孝子

鷹司孝子

家光との仲は結婚当初から非常に険悪で実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚程なくして家光から離縁。
大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で長期に渡る軟禁生活を送らされるなど家光の在世中は終始忌み嫌われ冷遇され続けた。
これは、家光と春日局らが対立する崇源院派(お江与)が送り込んだ人物として憎悪と敵対心を抱いた結果とする説や家光と孝子の間に子供ができ朝廷の力が増大することを恐れた春日局の策略という説、家光が男色好きであったためという説などがあるが、いずれも定かではない。
家光が死去する際、形見分けとして孝子に与えられた金は僅か五十両と幾つかの道具類であったとされている。

春日局

春日局

春日局とは朝廷から賜った称号で、本名は「斉藤福」。
父 斉藤利三は美濃の名族斉藤氏の一族で明智光秀の重臣。
本能寺の変により、利三は処刑されるも、福は女性であることから追われることなく母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。
これにより、公家の素養である書道、歌道、香道などの教養を身につけることができた。
その後、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。
福は、将軍家の乳母となるため正成と離婚。
1604年に二代将軍秀忠の嫡子 竹千代(家光)の乳母に正式に任命される。
御年寄りに任ぜられて、奥向きの公務を取り仕切るなど、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力も握っていた。
駿府にいた大御所・徳川家康に、竹千代の世継を確定させるように直訴したともされる。

桂昌院

桂昌院

京都大徳寺付近で産まれる。
1639年に御小姓として家光の側室、お万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。
1646年、綱吉を産む。
家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。
四代将軍 家綱の死後、綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入る。
1702年には女性最高位の従一位の官位と藤原光子という名前を賜る。
因みに、お玉(桂昌院)は、京の八百屋に生まれたが、家光の側室となり、また綱吉の生母となり豪華な輿に乗って大奥に入ったことから、彼女を「玉の輿」の語源とする説もある。